インコプフ

自己承認欲求と作文欲求の結晶

おしまい

大学1年生から始めたブログもきょうでおしまい。

 

もともと考えすぎてしまうクセがあって、そのせいで頭の中がモヤモヤするから、

それを吐き出して形にして投げ飛ばすために、始めた。

 

やり始めてみると、想いが整理されていって、

それだけじゃなくてじぶんの考えを伝えることができて、なんていいものなんだと好きになった。

 

やがてじぶんのことを伝える以外のことで文章を書くことが、目標になったりした。

叶わなかったけど。

 

 

振り返るとたぶん、かなり恥ずかしい文章も書いた。

かなり変な方向に尖ったものも書いたし感情を吐露して悔いたこともあった。

 

書いているとこんなこともあんなこともと思い浮かんで収集がつかなくなって、

考えを整理するつもりが考えに翻弄されもした。

 

いつの間にかひとの目を気にするようになって、閲覧数も気にするようになって、

つまんないこと言ったり、逆に過激なこと言ったり、

すごく手をかけて修正したりも、した。

 

でも書くことはとてもたのしくて、

読んでもらえるともっとたのしくて、

反応をもらってよろこんだ。

 

 

 

最近の心構えは、エゴであれというものだ。

 

とにかくじぶんの書きたいことを書きたいように書いて

それを読みたいひとが読みたいように読めばいい。

 

いつかはそうじゃないものもやっぱり書いてみたいけど、いまはそれでいい。

 

 

ここまで読んでくれたひとがいたら、

そのひとには感謝してもしきれない。

誰のためでもなくじぶんのために書いているものでも、

誰も読んでくれないならそれは存在がないのとおなじ。

どんなひともじぶんのためだけには生きれない。

だから、なにかを読むということは、だれかを生かすということ。

だから、読んでくれたひとには心から感謝したい。

直接伝えることはできないかもしれないけど。

 

 

 

 

Facebookで長文投稿はなんか恥ずかしいし、Twitterじゃあ短い。

モヤモヤするけれど、ひとに話すのほどでもない。

 

じゃあ、ブログに書こう。

 

 

 

おれはこれからは社会人だから、

せっかくだから、

一生懸命がんばってみるから、

一旦やめてみる。

 

 

書くということ、どうも。

 

 

おしまい

大学を、卒業しました。

3月25日に、大学を卒業した。

4月からは、社会人になる。

 

 

 

振り返ると、大学在学中の4年間は全ての時間をじぶんのために使ってきた。

 

 

 

留学したい

教育実習にもいきたい

サッカーもしたい

大学生っぽいこともしたい

旅もしたい

カフェも作りたい

講演会もしたい

もっと留学したい

もっと旅したい

もっとサッカー知りたい

したいしたいしたいしたいしたい

 

お金ほしいお金ほしいお金ほしいお金ほしい

かっこよくなりたいかわいい好きだ付き合いたい

 

それだけを追求していった生活だった。

 

 

きっとたくさんの迷惑をかけてきた。

でも、そういうふうに好き勝手やってきたことを、とてもよく覚えている。

 

 

 

 

たくさんのひとに会ってきた。

よく、新しい環境にいくと、「みんないいひと☆」とか

別れの時期になると、「みんないいひとだった☆」とか言うの見るけど、

(いいひとなのは当たり前だから)

おれが会ったおおくのひともいいひとだった。

 

とてもお世話になったひともいて、おもしろいひともいて、感服するような憧れるひともいて、たまには慕ってくれるひともいた。

旅をすればもっと様々な環境下のひとに会った。

 

 

ひとりでいるのが好きだから、それほど時間を共有しなかったかもしれない。

けれど、そういうひとたちのことを、よく思い出す。

 

 

 

 

日本全国を廻って、ヒッチハイクをして、海外16ヶ国を旅していろんなものをみて、感じた。

どうやったら練習がうまくいくか、どうやったら勝てるか、どうやったら好かれるか、

どうやったら上へ行けるか、考えた。

 

 

正直、景色は写真にあるだけであまり覚えていない。

試合の結果とかも覚えていない。

でもそれよりも、なにを話してなにを感じてなにを考えていたかが、強く残っている。

 

 

 

 

 

 

この4年間で学んだことは、そういう記憶がじぶんを生かすってことだ。

 

楽しいと覚えているからやる。

悔しいと覚えているからがんばる。

 

あのひとにまた会いたい。

あのひとはすごかった。

 

前はこんな風に考えていたからうまくいった。

あんな気持ちになるなら変えてみよう。

 

まあいろいろあるけど、いわゆる経験とか、思い出とか、

そういう身体に染み付いた記憶が、次に進む力を与えてくれるんじゃないかとおもってる。

 

 

もっと言ってしまえば、ひとが生きているのですら、ほかのひとの記憶の中だ。

 

大抵の場合、誰かほかのひととずっっと一緒にいることはできない。

一緒にいない間、そのひとにとってはただ、

ああこんなひとだったな、なにしてるかな、どうになるかな、と想うだけの存在だ。

その分、想いの中のひとこそが、その想っているひとにとっては絶対の存在である。

 

 

だから、ひとは記憶でしか生きることができないとも言える。

 

 

 

 

そしてその記憶は、じぶんで考えて、選択して、行動した日々の中にしか残らない。

好き勝手に、じぶんのために生きた時間しか、じぶんの記憶には残らないし、

そんなふうにして光っているひとしか、ほかのひとの記憶にも残らない。

 

 

 

 

 

 

そしてもう一つ学んだことがある。

それは、好き勝手に生きることとかじぶんのために生きることとかじぶんのために時間を使うこととかは、

じぶんだけのために生きることとは違う、ということだ。

 

よくもわるくも、ひとは一人では生きていけない。

 

それは、誰かと恊働しなければムリ。という意味ではない。

もっと泥臭い。誰かのためにならなければ気持ちが落ち着かない、ということ。

 

つまり、好き勝手にいてもじぶんのためといっても

結局はひとの役に立たなければやっていけないのだ。

ひとの役に立つことが、じぶんのためであり、好き勝手にやってひとが喜ぶならばそれほどうれしいことはないということである。

 

 

 


 

 

 

 

これから社会人になる。

たぶんいま見えている世界の見方とは違う見方をしなければいけないときが来るかもしれない。

だけどしばらくの間は、このおれなりの学びを持っていたい。

 

 

 

大学生活を悔いなく過ごせたことを、

みんなみんなに感謝。

 

ありがとうございました。

 

 

『マッキンゼー流 入社1年目 問題解決の教科書』

 

マッキンゼー流 入社1年目問題解決の教科書

マッキンゼー流 入社1年目問題解決の教科書

 

 

 
特に新しいことはなかった。
 
いま読んでも、そうだよねーとなるだけ。
 
こういう本は実際に起こした行動に即して読む必要があるし、
読んだなら実際に行動に移さなければ意味がない。
 
やるのが大事!
行動が大事!
 

『走ることについて語るときに僕の語ること』

 

感想は2つ

 

・どんなひとにも人生があって、そのほとんどの部分はひとと共有することはできない

・だからこそ、「じぶん」を保つことは難しいし、それを共有する数少ない人々の存在は大切だし、ひととの共有をうまく可能にし得る能力を持つひとは幸せだ

 

 

村上春樹のエッセイを読み始めて2冊目。

「走ること」(毎日10キロ以上走っているらしい)の村上春樹自身にとっての意味を軸に、

風の歌を聴け』のデビュー前からの作家人生も振り返るという半自伝のような本だった。

 

その中で、いままで物語文だけを読んで勝手に描いていた村上春樹像というものとは幾分違った、

人間味というべきものを知り、

ひとそれぞれ全く違う人生を、ちゃんと歩んでいるんだなあという

全く当たり前で達観した感想を覚え、すこし安心もした。

(特に、小説を書くことになったきっかけや走ることへの情熱、あるいは怠惰などは、隠居人的なイメージを変えた。じぶんの小説に対する批評もおもしろい。)

 

それと同時に、そんなの村上春樹に限ったことではなくみんな全く違う人生を、

それもみんなに知らせることなくひっそりと積み重ねているんだなあと、

これまた至極真っ当なことをおもった。

 

 

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