週刊 持論 -階層は自分たちでつくっている-
毎週土曜日に更新する 週刊 持論
題の通り、ただただ持論を綴っています。
階層は自分たちでつくっている
今週も土曜日がやってきました。
個人的なことを言えば、先週のはじめにパソコンが突如壊れてから、おもしろいくらいに不調の波が押し寄せています。
いま、新しいパソコンとしてMacBookの到着を待っているのですが、心機一転、彼がどんな人生の変化をもたらしてくれるのか、とても楽しみです。
いやいや、人生の変化なんて、勝手に自分がつくっているものじゃないん。っていうのが今回のおはなしです。
1.なぜ階層❓
たまに、こんな会話を耳にしたり、あるいは、自分で経験したりしませんか。
「すごい!(おれ)私とってもがんばった!」
「え、それでがんばったって言えるの?もっとできたでしょ。」
「これでも(おれ)私なりにがんばったの!」
みたいな。私は私なりにがんばったていうのと、周りの認識のずれの問題です。
口には出さずに、心の中で「は、どうせできるやつにはわからねえよ。」と思うこともあるかもしれません。
たぶんこれ、両方の立場をほとんどのひとが経験したことあるんじゃないかなと思うのですが、どうでしょう。か。
この現象を、階層の決定だと思っているのです。
どういうことかというと、誰かのがんばりを「大したものではない」、と感じた時に、その人は、そのがんばった人とは、もうおんなじレベルにはいないということで、同じように、誰かにがんばりを否定されたときに「なんだこいつ」、と感じた時に、その人は、そのがんばりを否定した人とは、おんなじレベルにはいれないということです。
だってその人とは、自分が必要だと感じている努力とか、がんばりの度合いが違うっていうことだからね。
それってつまり、その前提である、当たり前のレベルも度合いも違うっていうことになるし、そうなると、成長の速さも違ってくることになりますよね。
だから、否定されたときに、「たしかに、こんなのはまだまだだ。」とかっていう思考になったら、もしかしたらレベルは違わないのかもしれないな、とも思います。
要は、自分が当然だとおもっているがんばりの度合いによって、成長のスピード、そこから将来の像、ひいては年収や待遇など、階層を決定づけるものまでつながっていくんじゃないかな、ということです。
2.なにで決まるの❓
ではこの、自分が当然とおもうがんばりの度合いというのはいつ決まるのでしょうか。
自分は、中高生の頃じゃないかな、とおもっています。もちろん挽回はできそうだけど。
こんなのは、才能は関係ありません。簡単に言えば、やるかやらないか、どこまでやれるか、の問題ですからね。
では、ここにもっと関係してくるのはなにか。
環境です。
分かりやすく言えば、切磋琢磨できる環境があるか。生半可な努力では太刀打ちできない相手がすぐそばにいるか。そのがんばりを肯定してくれる、また、まだまだだと言われる状態になっているか。
といったところです。
よくできたねえ。と言ってくれるひとしかいない環境では、のちのち困るというのは、誰しもが想像できることだとおもいますが、実はもっとこわいのは、そこそこの条件が整っていて、そこそこの力を出せばがんばっている風をだせる環境だとおもいます。
そんな風にやって、周りをごまかしていると、そのうち自分もごまかすことになって、結果的には、それが自分の最大のがんばりなんだという、事実をつくりあげてしまうことになるのではないでしょうか。
これは、全力のはなしに関わってくるので、ここでは省略しますが、がんばればいいというものではなく、そこには、常に全力であることが絶対条件として求められます。
勉強、部活、習いごと、趣味...
中高生時代の本気のがんばりは、将来の自分のがんばれる範囲を決定し、それによって自分がいける高みの位置を決定づける要素にすら、なります。
自分もすごいなあという人に会ったときには、「まあこのひととおれは違うから」ではなく、素直に感心し、「こうなりたい」とおもうようにしています。できるだけ
誰しも、自分を否定するようなひととは一緒にいたくはありません。
自分のがんばれる範囲のひとといた方が楽です。
でも、そうやって階層がつくられのだとしたら、できるだけいいところにいるためには、いま、自分のがんばりの殻を破るしかないのだとおもいます。
まあ、そのいいところってのも、ひとそれぞれで、それでいいならいいんだけどね。っていういつもの結論になるのですが。