インコプフ

自己承認欲求と作文欲求の結晶

新島襄×『希望の国のエクソダス』

内定式後に飲み会に出席し、そのままバスに乗り込んで青森

翌朝大型船に乗って北海道の函館に到着した。

 

目的は3つ

 

新島襄の旅立ちの記念石碑をみること

友達に逢うこと

ぼーっとすること

 

 

ぼーっとすること、つまり移動とかのひとりの時間も大切にしようとおもっていたので

事前に図書館で本を一冊借りてった。

たまたま目に留まったこれ

 

希望の国のエクソダス (文春文庫)

希望の国のエクソダス (文春文庫)

 

 

不登校から始まり、中学生が自分たちのちからで社会に立ち向かっていくはなし。

 

 

 

なんだけど、

この本を読んで感じたことと新島襄の石碑や銅像をみて感じたこと

この本の最終的な舞台とこんかい旅した場所

が、リンクしてビックリだったので書いておく。

 

 

 

 

まずは、本を進めるにつれて場所が北海道、しかも中央部に移っていくのに少し驚く。

おれが旅したのも、中央部の札幌、そして南端の函館。

 

 

つぎに、その函館で見たものはジョウさんの石碑と銅像

 

そもそもが、脱国の事実がすげーって惚れ込んだため、

むかしからこの函館の碑はみたかった。

そしてその場でぼーっとして、なんとなくでも、

ここから出てったのかーとかどんな気持ちだったのかなーとか

そういうのを考えて想いを馳せてみたかった。

あわよくばなにかこう、得られるものがあるんじゃないかなんて考えていた。

 

だから辿り着いたときには、よろこび、しばらく想いに耽っていた。

 

といってそこでなにかの啓示を受けたわけでもないのだけれど、

ふと、どうしてここまで新島襄に憧れるのか、という疑問みたいのを感じて、考えた。

 

そこでの結論は、

「こうするべきだ。これはおかしい。」の直感を信じて行動した

からなんじゃないか、ということ。

 

少年期に、興味を持った学問を禁止されていることに違和感を覚え、

自分の反発を信じて、そうじゃない世界を見に行く。

そして少年のときのその感覚を抱いたまま、行動し実現させる。

 

これはとてもすごいことだ。

 

 

でも、  だから憧れる というわけではない。

憧れるためにはもう一つ、

「自分でもできるかも」が必要だ。

ウルトラマンにあこがれないように。

 



うえに太文字で書いたことは、実は誰にでもできるからなのではないか、とおもうのだ。


だいたいのひとは小中高の間に、

この制度おかしいだろとか先生が言ってることは間違ってるとかこんな大人にならないぞとか

そういう感想というか直感みたいなものを持ってるわけ。


 で、

その感覚は絶対に間違っていない

 

間違っていないのだけれど、徐々に大人の世界の思考になっていく。だから、おもっても、実際に現実にさせることは難しい。


これこそが、新島襄のすごさではないだろうか。とおもうわけである。

 



本書も、中学生が中学校という教育制度や教師という大人にあきれて

自分たちのやり方で成長していくはなしだ。

その感覚も、やり方も、全く間違っていなく、

間違っていないからこそ、新鮮で煙たがられていた。

そしてそれでも淡々と実行に移していく、力強さを感じた。

 


中学生という若さで知識を付けて行動してしまうのがこの小説ではあったが、

実行するのは何歳だろうが関係ない。

ただ、実は大切な、反発的な直感を得られるのは、小中高ぐらいだろうし、

いかにその感覚を持続的に持てるかは、結局のところ少数なんだろうと落胆もする。

 

 

なにに反感を持っていたか。

いまもそれを変えたいとおもっているのか。

 

これに応えられるひとこそが、次の新島襄になれるはずだ。