インコプフ

自己承認欲求と作文欲求の結晶

『走ることについて語るときに僕の語ること』

 

感想は2つ

 

・どんなひとにも人生があって、そのほとんどの部分はひとと共有することはできない

・だからこそ、「じぶん」を保つことは難しいし、それを共有する数少ない人々の存在は大切だし、ひととの共有をうまく可能にし得る能力を持つひとは幸せだ

 

 

村上春樹のエッセイを読み始めて2冊目。

「走ること」(毎日10キロ以上走っているらしい)の村上春樹自身にとっての意味を軸に、

風の歌を聴け』のデビュー前からの作家人生も振り返るという半自伝のような本だった。

 

その中で、いままで物語文だけを読んで勝手に描いていた村上春樹像というものとは幾分違った、

人間味というべきものを知り、

ひとそれぞれ全く違う人生を、ちゃんと歩んでいるんだなあという

全く当たり前で達観した感想を覚え、すこし安心もした。

(特に、小説を書くことになったきっかけや走ることへの情熱、あるいは怠惰などは、隠居人的なイメージを変えた。じぶんの小説に対する批評もおもしろい。)

 

それと同時に、そんなの村上春樹に限ったことではなくみんな全く違う人生を、

それもみんなに知らせることなくひっそりと積み重ねているんだなあと、

これまた至極真っ当なことをおもった。

 

 

 

 

 

 

その点、その、じぶんを含めた「みんな」と村上春樹とを極端に区別しているのは、

それを伝える言語化能力である、と

再びその表現する力に感嘆するはめになった。

だって、他の誰が、「走る」という特に珍しくもない趣味を題材に、

その走り方、考え方、そして人生の過ごし方をひとに読ませる文章で書けるだろうか。

 

 

どんなひとも、基本的にはその人生を、数少ない大切なひとと共有するのだとおもう。

ひとりでは寂しすぎて生きていけないし、

おおくに伝えるには手段が限られるからだ。

 

それでも、(おおくのひとに伝えることが必ずしもいいことではないけど、)

おおくのひとに伝えたいとおもうことも多々ある。

 

そんなときには、やはりじぶんの「伝える力」の限界にぶちあたることになるだろう。

もしくは、より簡易で常識的な言葉を使ってしまうがために「じぶん」を捨て、

「じぶん」の人生を伝えることとの矛盾に苛まれることになるだろう。

 

 

 

やはり、村上春樹はすげえ。

 

 

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)