インコプフ

自己承認欲求と作文欲求の結晶

大学を、卒業しました。

3月25日に、大学を卒業した。

4月からは、社会人になる。

 

 

 

振り返ると、大学在学中の4年間は全ての時間をじぶんのために使ってきた。

 

 

 

留学したい

教育実習にもいきたい

サッカーもしたい

大学生っぽいこともしたい

旅もしたい

カフェも作りたい

講演会もしたい

もっと留学したい

もっと旅したい

もっとサッカー知りたい

したいしたいしたいしたいしたい

 

お金ほしいお金ほしいお金ほしいお金ほしい

かっこよくなりたいかわいい好きだ付き合いたい

 

それだけを追求していった生活だった。

 

 

きっとたくさんの迷惑をかけてきた。

でも、そういうふうに好き勝手やってきたことを、とてもよく覚えている。

 

 

 

 

たくさんのひとに会ってきた。

よく、新しい環境にいくと、「みんないいひと☆」とか

別れの時期になると、「みんないいひとだった☆」とか言うの見るけど、

(いいひとなのは当たり前だから)

おれが会ったおおくのひともいいひとだった。

 

とてもお世話になったひともいて、おもしろいひともいて、感服するような憧れるひともいて、たまには慕ってくれるひともいた。

旅をすればもっと様々な環境下のひとに会った。

 

 

ひとりでいるのが好きだから、それほど時間を共有しなかったかもしれない。

けれど、そういうひとたちのことを、よく思い出す。

 

 

 

 

日本全国を廻って、ヒッチハイクをして、海外16ヶ国を旅していろんなものをみて、感じた。

どうやったら練習がうまくいくか、どうやったら勝てるか、どうやったら好かれるか、

どうやったら上へ行けるか、考えた。

 

 

正直、景色は写真にあるだけであまり覚えていない。

試合の結果とかも覚えていない。

でもそれよりも、なにを話してなにを感じてなにを考えていたかが、強く残っている。

 

 

 

 

 

 

この4年間で学んだことは、そういう記憶がじぶんを生かすってことだ。

 

楽しいと覚えているからやる。

悔しいと覚えているからがんばる。

 

あのひとにまた会いたい。

あのひとはすごかった。

 

前はこんな風に考えていたからうまくいった。

あんな気持ちになるなら変えてみよう。

 

まあいろいろあるけど、いわゆる経験とか、思い出とか、

そういう身体に染み付いた記憶が、次に進む力を与えてくれるんじゃないかとおもってる。

 

 

もっと言ってしまえば、ひとが生きているのですら、ほかのひとの記憶の中だ。

 

大抵の場合、誰かほかのひととずっっと一緒にいることはできない。

一緒にいない間、そのひとにとってはただ、

ああこんなひとだったな、なにしてるかな、どうになるかな、と想うだけの存在だ。

その分、想いの中のひとこそが、その想っているひとにとっては絶対の存在である。

 

 

だから、ひとは記憶でしか生きることができないとも言える。

 

 

 

 

そしてその記憶は、じぶんで考えて、選択して、行動した日々の中にしか残らない。

好き勝手に、じぶんのために生きた時間しか、じぶんの記憶には残らないし、

そんなふうにして光っているひとしか、ほかのひとの記憶にも残らない。

 

 

 

 

 

 

そしてもう一つ学んだことがある。

それは、好き勝手に生きることとかじぶんのために生きることとかじぶんのために時間を使うこととかは、

じぶんだけのために生きることとは違う、ということだ。

 

よくもわるくも、ひとは一人では生きていけない。

 

それは、誰かと恊働しなければムリ。という意味ではない。

もっと泥臭い。誰かのためにならなければ気持ちが落ち着かない、ということ。

 

つまり、好き勝手にいてもじぶんのためといっても

結局はひとの役に立たなければやっていけないのだ。

ひとの役に立つことが、じぶんのためであり、好き勝手にやってひとが喜ぶならばそれほどうれしいことはないということである。

 

 

 


 

 

 

 

これから社会人になる。

たぶんいま見えている世界の見方とは違う見方をしなければいけないときが来るかもしれない。

だけどしばらくの間は、このおれなりの学びを持っていたい。

 

 

 

大学生活を悔いなく過ごせたことを、

みんなみんなに感謝。

 

ありがとうございました。