インコプフ

自己承認欲求と作文欲求の結晶

印象でブラジルワールドカップを振り返る 2

 

 

 

第二弾

日本が未勝利に終わった理由

 

きょうは日本がグループリーグにおいて未勝利に終わってしまった理由について書いていきます。きっとおおくの人がこのことについては書いていると思うけど、自分は自分の印象で綴っていきます。

 

 

あと、これにはもちろん、たっくさんの理由があげられるとおもうんだけれど、特にこれじゃねって言うのをあげていきます。

 

 

 

 

 

1、個々人のレベルが違った

それを言っちゃあ、ということですが、まずこの前提をはっきりさせておかないとなにもはなしが進まないと思いました。

 

 

ここでは、なにも『日本にはネイマールフンメルスイニエスタもいない』など能力のことを言っているのではありません。

単純に、ほかのチームと比べてほかの国と戦うという意識のレベルが違ったということが言いたいのです。

 

きのうの記事で述べた通り、今回のワールドカップで初めてしっかりとほかの国のサッカーを観ました。その中で気が付いたことは、いわゆる強豪と呼ばれる国以外の国の選手の強さと意識の高さでした。

 

 

 

お気に入りはブラジル戦でのクロアチアの選手たちの守から攻の切り替えとドリブルという個人技での左サイドの突破です。

 

 

 

特にこれらの違いは、攻守の切り替えのはやさと試合終盤の負けている時の戦い方や走力で出ていたかなと感じました。

 

 

 

 

 

チームとしてのレベルが違った

『日本はチームプレイが得意』とはよく言われること。

でも今回のワールドカップを見る限り、『日本の良いところを強いてあげるならチームプレイ』という程度でしょう。

 

チームとしてのレベルというのは、ここでは試合に出ている選手の総合体としての能力について言っています。つまり、監督の目指すサッカー、そして状況に応じた自分たちの判断がピッチのうえでできるかといったことです。

 

 

敢えて強豪国以外で言うと、好例は韓国戦でのアルジェリアかなと思います。韓国のディフェンスラインが一体一と高さに弱いと知るやいなや、ロングボールも織り交ぜて攻めるように変えてきました。

 

 

この点、日本はパス回しサッカーというものを貫こうとしていましたが、今大会の特徴である固い守備ブロックの前に通用しないとわかっても、そこから変更することができず、挙げ句の果てには苦肉の策であったパワープレーもやっているのかやっていないのかわからない中途半端な形で終えてしまっていましたコートジボワール戦でのドログバ出現後は、誰が見ても選手がビビって(もしくは必要以上に敵視して)ドログバにばかり注目してしまっていたのに、それをなかで解決することができませんでした。

 

 

総合力という意味では、交代選手の活躍も考慮にいれなければなりません。

日本戦でのコートジボワールドログバの交代は見事としか言い様がありませんが、片や日本では、ボランチやトップの交代選手がいままでとは違った形の攻撃をみせるというようなことは皆無でした。

 

 

 

 

 

 

『サッカー』のレベルが違った

いわゆる『自分たちのサッカー』、前線からの早いプレスとポゼッションサッカーが通用しませんでした。

自分も、これまでほとんど真剣にそとのサッカーを見たこともなく、親善試合とアジア大会でそこそこ日本のサッカーが通用しているのしか知らなかったので完全に結果論にはなりますが、ちゃんと守備をするべき でした。

 

きっと、大会前から『われわれは守備を捨てて攻撃を重視する。3点入れられても4点入れるだけだ。』と豪語していたのは日本だけだったことだろうと思います。サッカーとはそれでもいけるんだ!という感じが出ていて、『サッカー』そのもの自体に対する畏れのようなものが足りていなかったんじゃないでしょうか。思慮深さというか準備というか。

 

勝利のために『自分たちのサッカー』を捨て、『見ていてもしていてもつまらなくなるかもしれないサッカー』をするという選択肢を持ち、それを選択したオランダのような姿勢が必要だったのかもしれません。

 

 

 

 

国のレベルが違った

個人的には、個人やチーム、サッカーとしてのレベルの違いよりもむしろ、根本のワールドカップに対する国としての姿勢が違っていたのかなと思います。

 

ドイツにいたときも、もちろんサッカー選手が出演するCMや広告は目にしました。しかしそこに写っているのは、メッシーやネイマールクリロナイニエスタというごく少数の、トップレベルかつ知名度の高い選手のみでした。

 

しかし日本に帰ってきたらいろんな選手がテレビ番組やCMに出ていましたので、選手を使った広報活動や選手の特別番組についてのなされたバッシングの前から、若干の違和感は感じていました。

 

 

さらにもう一つ気になったのが、『サッカー』を語るひとのおおさとそのひとたちの出るテレビ番組のおおさです。

そしてそこから感じた気持ち悪さが、とてもわかりやすく日本代表のサッカーを解説しようとしていることでした。テレビの中から、諭すように異口同音、戦術を説いていたのです。

 

今回の日本代表は『自分たちのサッカー』という言葉を発した数が歴代でダントツ一位だそうです。自分は、この現象もまた、オーディエンスにわかりやすく伝える便宜的な言葉の乱用ではなかったのかと思っています。

 

 

 

 

ここで重要なのは、テレビに出ている選手や監督(通訳)が語る言葉も、サッカー識者が語る言葉も、すべては日本国民のために発せられているということです。

 

 

『自分たちのサッカー』に関しても、こちらはこちらで『自分たちのサッカー』と言われれば「そうだよね!」となるし、挙げ句の果てには「『自分たちのサッカー』をしろよ!!」なんて言えば、なんとなくわかった気になってしまいます。

 

わかりやすい戦術ロジックも、簡単な相手選手の紹介も、日本代表の情熱も、わかりやすい物語も、そして『自分たちのサッカー』も、すべては手っ取り早く、簡単にたのしみ盛り上がりたいという願望に答えてのものなわけです。

 

 

 

加えて、セルジオ越後さんかどなたかかがおっしゃっていたのですが、メディアが勢いに任せて選手を祭り上げて、『所属クラブで出場機会が得られていないひとも結果を残せていない人も世界のスーパースターのように扱ってしまった』ものですから、自分たちが勘違いしてしまったという面もあると思います。

 

 

この勘違いがそのまま、なんとなくの『勝てるんじゃね、いけるんじゃね』という正体不明の自信に変わり、それが期待、確信そして、無責任な失望へと変化していくのです。

 

 

 

 

ワールドカップというエンターテインメント

このように楽しめるのは幸せなことだとわかっています。

 

手放しの期待

これはみているひとたちの特権であり、楽しみ方の一つです。

 

 

だけど、『サッカー』をしている選手と監督がいること、そこには相手がいて勝敗があること、勝利をつかむためには犠牲が必要にもなること、国の力をかけた勝負事であること を忘れてしまってはいけないのかなと思いました。

 

 

 

 

これは国としての態度を批判するなんて壮大なものではなく、単にこういう特殊っぽい反応があって、これもまた、日本サッカーの負の要素のひとつになっているのではないかという単なる可能性のおはなしです。

 

 

 

 

サッカーの楽しみ方と楽しませ方、ここも見直してもいいかもしれません。

 

 

 

 以上です!

 

 

 

 

 

また長くなってしまったので、

では・・・zzz