インコプフ

自己承認欲求と作文欲求の結晶

働いてみて得たものについて語るときにぼくの語ること

 

 

 

先日、ひさしぶりに学生運営カフェのシフトにはいって働いてきました。

このカフェはすこし特殊であり、店長と副店長以外は同大学の学生でシフトから企画などまでが構成されていてるというものです。

 

そこで、その店長から言われたなにげない一言からそのシフト中ずっと考えていたことのありきたりな答えへのヒントをいただいたのでそのことについて書こうと思います。

 

 

 

突然ですが、ぼくがつねづねおもっていることは、 思考は自由である ということです。

つまり、じぶんがどんな状況に置かれようと、どんな顔をしていようとどんなことを言っていようと、頭のなかだけは(いまのところは)決してなんぴとにも侵されないエリアだとおもっているということです。

 

そんなわけで、ぼくはそのシフト中に業務とは別に『働いてみて得たもの』について考えるという課題をじぶんに課してみたのです。

 

 

 

コーヒーを入れながら、店長に注意されながら、レジを打ちながら、テーブルをふきながら、うーーーーーんとひたすら考えてみてみました。ぼくがここで働いて、それで得られるものて一体なんなのだろうと、

 

 

そんなときにまた店長から注意されました。((いまに始まったことではなく)ぼくは勤務態度についてとてもよく注意を受けます。)

 「もっとはっきりしゃべらないと、お客様に気持ちよく帰ってもらえないヨ。」

 「一流のホテルマンを演じるくらいの気持ちでやりなヨ。」

 

 

あ、これか。とピンときちゃいました。

怒られながらおもわずニンマリ。ありがと店長。

 

 

じぶんがよく注意を受ける理由というのは、じぶんがまったくじぶんのままで常にいようとしているからなのです。たぶん。

モゴモゴと口を動かしてしまうのも、どこかやる気なさげに見えてしまうしゃべり方も、すこし背中が丸まった歩き方も(悪いところばかりじゃねえか。)、ふだん通りのじぶんでそれがそのまんま出ているというわけです。

 

 

したがって、ぼくがここで働くことで得ていたもっとも大きなことというのは、(そんなの当たり前だろという怒号が聞こえてきそうですが、)ありのままのじぶんを捨てて相手(この場合はお客様)が求めるじぶんになることの大切さを学ぶということになるのですね。

 

 

(ほんとに当たり前すぎて恐縮なのですが、)じぶんがありのままのじぶんでいることができるのは、あくまでそのありのままのじぶんを知っている関係の上であって、ましてや赤の他人に、いやお客様にはみせる部分ではないということですね。

 

こうやって文字にしてしまうと、そんなの知ってるよ、なにをいまさら感がムンムンかともおもうのですが、これって意外と意識されにくいことなのかもしれないと、じぶんのことは棚の上の奥のほうに押しやって他人のことを考えてみても思い当たる節がないわけではありません。

 

特に、本格的に社会に出てよりおおくの利害関係のあるひとと関わりあうようになったらより大事になってくることでしょう。相手が求めているのは、ありのままのじぶんではなくて、そのひとにとって気持ちの良いひとであるということが、

 

考えてみても、社会の中で『じぶん』で勝負するひとたちというのはかなり少数派です。ぼく自身も、『じぶん』を隠すのがとてもイヤなひとなのでできればそこで勝負したいのですが、それまではきちんと順応しなければならないのでしょう。

 

 

 

だからこそ、ぼくはこのカフェ業務において、ありのままのじぶんにこだわるのではなくてホテルマンを演じてお客様にとって理想の店員であるように努める姿勢を学び取る必要があるのだとおもいました。

 

じぶんに最も欠けている要素のひとつでもありますしね。

がんばろ~

 

 

 

では、