『教室内(スクール)カースト』
まあまあ
下位だとみなされている生徒は、その「才能」や「資質」がないため、「クラスで別の個性」を作っていかなければいけないというように思っているということもわかります。またそうした生徒は小林先生からすれば、「楽」をしているようにみえているようです。
上の文は「スクールカースト」について
教師インタビュー調査をした際の記録として書かれている部分。
ちょっと違うんじゃないかなとおもった。
確かに、学力だけに留まらず
「生きる力」に代表される様々な「力」を付けることが求められている教師にとって、
カーストすらもまた、その創造ための「場」であり、
それができない生徒は自ら努力をしなければならない、という論理の理解はできる。
し、教師を経験したことのない自分にとって、その考えは想像できない部分が多い。
だけど、実態として本書に多く記述されていた例で、
上位にいる生徒があらゆる意見を押し通し、
さらにそれを「楽しい」と感じているというものもあった。
それが「楽しい」のは、違うだろう。
だから「スクールカースト」が「能力の違いから生まれるヒエラルキーだから妥当だ」
というのはやはり強者の論理でしかないとおもう。
カースト下位の生徒へのインタビューで、
修学旅行時に「イケてる」生徒たちが体調不良で不在のときに、
「イケてないグループ」のメンバーがクラスを盛り上げ、
そのときの体験を「楽しかった」を振り返るはなしがある。
本書ではこのことから、
「イケてない」生徒たちがエンターテイナー的素質や能力を持っていない訳ではない、と結論づけている。
それはまた、上位に対して下位の生徒にはこれといった特徴が見当たらないことからも同様に考えられる。
これは確かにその通りだとおもうし、
ということは、カーストを形作っているのは「能力」なのではなく、
その経験をする機会じゃないかなとおもった。
機会を活かすことができるかどうかというのは、確かに「能力」の問題かもしれない。
けれど、グループ間にそれほど「能力」の差がないかもしれないのならば、
そこに上下関係が生じるのは妥当ではないし、
ましてやそのようにして得た地位と権力を振りかざして「楽しい」と感じさせていることは、良くないかなあ。
機会を与えることが仕事、だと考えています。