インコプフ

自己承認欲求と作文欲求の結晶

『欲ばり過ぎるニッポンの教育』

 

5月23日に読了。kindle版。

 

 

 

 

紙の本は2006年出版だったから内容としては古く、主に英語教育の是非から日本の教育改革のあり方について論じられていた。

 

 

この本の構成は、教鞭をとりながら教育問題について取材をしている増田さんと、刈谷先生の対談という形であった。

 

内容の前に気になったのがこの構成で、読み始めから終わりまで、対談にする意味はあるのかという疑問はつきまとっていた。

増田さんはライターという立場から、刈谷先生は学者の立場から発言するので、会話が噛み合っていない感が終始否めないのだ。かたや取材の結果を述べたがっていて、かたや自分の主張を掘り下げるために難しい質問を投げかけるというような感じ。

 

必ずしも刈谷先生の研究に沿ってなされた取材でも、主張に沿ってなされた取材でもないためにすり合わせが厳しいのかなと思った。

 

 

結果的に、議論自体は全く掘り下げられずに一貫して同じことを言っていた印象を受けた。

 

 

 

 

ただ、増田さんの豊富な取材は保護者などに対してなされている場合が多く、その分彼女自身が世間一般的な意見を出すので、それに対する刈谷先生の答えは自ずとわかりやすいものになっていた。

 

いきなり小難しい議論をされてもきっと混乱していただろうから、その点一貫して同じ主張がなされていたというのもありがたかったかもしれない。

 

 

 

また、増田さんはフィンランド教育についての知識が豊富で、彼女のみのページを読めばすんなり理解できてしまう。

 

刈谷先生のコラムもとてもわかりやすくまとめてあった。

 

 

皮肉にも二人のそれぞれのページが読みやすく、内容も充実している分、対談の意味を疑わざるを得なくもなっているかなという感じ。

 

 

 

 

 

 

 

内容に関しては、教職をとり曲がりなりにも教師を目指している身分として、読んでおいて損はないという感想。

 

教職の授業というのは、現在の教育基本法や学習指導要領を理解したり暗記したりしてテストに合格するというもので、決して現在の教育制度などに疑問を持つことではない

 そもそもそういう政府が決めるようなことにいちいち疑問なんて持たない方が楽なんだ。

 

だけど、社会学の視点からその問題点を厳しく言い当てているのは読んでいて痛快であった。

 

 

 

ちょうど留学に来る前の授業で覚えさせられた、『生きる力』といった、学習指導要領内の文言にも言及している。

これは、習っていて「なんだそれ」と思う自分と「なるほどな」と思う自分がいてなんだか気持ち悪い感触の残っていた言葉だった。

 

 

教育論を形作っている言葉には、不思議な力がある。「個性の尊重」にしても、「考える力」にしても、うさんくささと同時に、各論に至ったときの解釈の違いを包み隠してしまうほどの、総論レベルでのもっともらしさや、反論のしづらさを醸し出す力である。「理想としては正しい」という言い方が許されるものも、曖昧さをのこしたまま、それだけに、抽象的なレベルでは反論のしにくい、共有されることを前提にした価値を示す言葉が多いからだろう。

 

 

 

 

大学の講義の中でつまらない授業を上げていったら上位は必ず教職の授業が占めるだろう。

その理由もこれと同じなのかもしれない。

 

つまり、結局のところその教育方針が具体的になにが原因で具体的になにを目指していているか、教えている教授自体が理解できていないから、講義が「理想としては正しい」ことをただただ述べるだけになっているか、もしくはその教授自身の体験談になっているのだ

 

 

中身のない抽象論はもちろん、その教授の教師時代の体験談だって、酒の席で聞けば興味深いかもしれないが、90分間も座って聞けるものではない。

 

結局のところ、大学の教職の授業ではこういう基準のこういう理由でこれを習わせて習得させなければならないという目安自体も曖昧なままなのかもしれない。

 

 

 

フィンランドの場合は、

教師になるためには修士号(大学院卒業)の取得が義務付けられている。そのため、最低5〜6年をかけて理論を学び実習を体験する。例えば、小学校の担任資格をとるためには312時間の現場実習が義務付けられている。実習は7週間プラス5週間というように分けて行われるが、実習期間も並行して大学の講義に出席しなければならない。  (2411/2808)

 

と書いてあり、

フィンランドでは、教師は、民間の調査でも高校生の人気ナンバーワンの職業に輝き、社会的地位も高い。  (2522/2808)

 

とある。

 

 

 

このような教師を育てる教員は、さらに厳しい目を向けられているらしい。

 

 

 

 

 最後に、この本の主張は

 子どもや若者の事件が起きると、決まって「今の教育はどうなっているんだ」という教育バッシングが始まる。(中略) そこに共通するのは、「教育がおかしくなっているから、○○が起きる」という問題の立て方・見方である。

 このような発想の裏返しにあるのは、「教育さえしっかりしていれば(あるいは”正しい”教育が行われていれば)、○○という問題は起きないはずだ」という私たちの教育への期待である。(中略)教育にその責任の一端があったとしても、日本の教育には、その身の丈にあった実力以上のことが期待されているのかもしれない。まるで、さまざまな問題を解決できる魔法の杖、あるいは万能薬であるかのように、である。(871/2808)

 

このこと(*身の丈に合った期待がどれだけのものかを議論せずに、期待に応えられない教育の現状を批判し続けること)に気付かぬまま、しかも教育環境の準備に十分なお金をかけずに、ポジティブリスト(*できたらいいなのリスト、総合学習や英語教育などを指す)をさらに増やしていけば、この先どうなるのか。個人の選択を中心にした仕組みへの移行を加速させるだけだろう。それは、不平等な社会としての学習資本主義の本格的な指導を意味する。  (2732/2808)  

 

 

もう書かないけど、この本の良いところとして、他国の教育と比較検討した結果の「悪者」な日本教育の功績にも言及されていたところがあった。

 

 

毎回、刈谷先生の本は批判的に読むのが難しいけど、あえてするなら、総合学習について『一斉にやろうとしたことが間違い。できる教師とできない教師がいる。段階的にやるべき。』

というところについて、もちろん賛成だけれど、これもまた選択を促す学習資本主義に繋がる考え方だと思った。

 

 

 

 

 

以上。

 ほんとはもっといいこと言うな〜ってところもあったんだけど。

 

 

 

 

どうしても社会全体の見えない流れに沿って思考が動いちゃっていることがある。

世論や一般的な意見として受け入れられやすい言葉もある。

 

そしてそれは、たいてい根本にある問題が多く、目先には現れない。

 

 

教育に関心があるものとして、そういうちょっと立ち止まって冷静に考えるべきことを考えていかなきゃいけない。