インコプフ

自己承認欲求と作文欲求の結晶

”イマがしあわせ” の定義について

 

 

 

【(どうでもいい)報告】

きのうの記事はあまりにも駄文である度合いが高すぎたために消されました。生産性のない批判は誰をも良い気持ちにさせません。そんなものは心のなかでこなごなにきざんで、夏の夜風にふうと飛ばせばいいだけでした。

(この世の中できっとおれしか気にしていないことだけどいちおう)すいません。

 

 

 

さてきょうは

ふと、いま、わりとしあわせなんだなておもうことがあるので、その定義について考えてみます。なんでそんなふうにおもうのかな、そんなふうにおもうときの特徴てなんだろうというような感じで。

 

 

あのときはよかったなと思い返さない。

むかしのことを思い出してはいまと比べたりすることは、やはりココロにスキがあるということではないでしょうか。たとえ、「あのときはよかったな、でもいまもいいよ。」という文脈であっても、比較対象にはできないふたつのことを持ち出している時点で無理していると考えられます。

 

 

あれが楽しみだなと思いめぐらせない。

同様に、期待にしろ不安にしろ未来のことに気を取られている状態もやはりスキがあるとみれるとおもいます。もちろん、楽しみにしているときの感情はプラスだしその意味ではしあわせなのかもしれませんが、同時にその行為はいまを殺しているともとれます。「はやく時がすぎてそのときになればいいな。」とおもっているいまはとてもしあわせとは言い難いでしょう。

 

 

 

ほかにも、知らぬ間に笑顔になる。とかひとに対して寛容になる。とかそういうのもあるのかもしれませんが、今回はおもにこの時間軸にそって考えてみました。

 

 

 

 

ここで言いたい結果的なことはふたつです。

 

 

”イマがしあわせ” の定義としては、過去や未来を意識しないのと同じようにそのイマですらも意識していない状況のことを指します。

 

簡単に言えば、「あのときはよかったな。」のあのときにいつの間にかなっているようなときということです。これは時間的な忙しさのことを意味しているのではなく、どちらかというと心理的な忙しさのことを意味しています。イマのことしか考えることができないのにそのイマのこともよくわかっていない。そんな状態でしょうか。

 

 

ふたつめの結論として、これはいわゆる『リアルが充実』ということを指しているのでは決してない、ということです。しあわせ=充実 というのはありがちな構図かとおもいます。しかし、上でも述べた通り、本来比較するべきでないものがその対象になっているときは往々にしてあまり良い傾向のなかにいるとは言えません。

 

『充実』という言葉には(正確にはわかりませんが)どこかしら比較のニュアンスが含まれている気がします。(他人と比べて)充実とか、(むかしの自分と比べて)充実とか、そういった言外の意味で、ということです。

 

充実している。ということを感じた時点で少なくとも ”イマがしあわせ” の状態のピークは過ぎたといってもいいでしょう。

 

 

 

 

つまり、以上のふたつの結論からもう一度この ”イマがしあわせ” を定義しなおすと、イマはまったくもって気がつかないしあわせということになるかとおもいます。若干逆説的ではありますがまあいいんじゃないですかね。

 

 

結局ある意味では一般論で落ち着いちゃったことはすこし悔しいのですが。

 

 

 

 

 

またしても考えながら打っていたのでまとまりがなく長いものになってしまいました..

 

 

では、