週刊 持論 ―ハロウィーンについて―
毎週土曜日に更新する 週間 持論
ハロウィーンについて
前回も書いたとおり、今週から毎週土曜日になんらかのテーマについて勝手気ままに持論を展開していきたいとおもいます。
きょうはハロウィーンについて。
じぶんは田舎に住んでいるのでまったく知らなかったのですが、東京のほうでは仮装した人たちがまちに溢れすぎてすごいことになっているらしい。
そんなニュースをみておもったこと。
起源がはっきりしていないし、なんのためにやってるのかもいまいちパッとしないから、もともとハロウィーンは苦手。
そんなことをおもっていると、ハロウィーンの仮装でカオスと化している東京のまちの様子がテレビのニュースが映されるものだから、すこしむっとなる。
だけどこのニュースがすごかったのだ。
というのも、まち歩く外国人にインタビューをして、『日本のハロウィーンは独特で、世界一である。』という見解を示したの。
オーストラリアの女性は、「オーストラリアは出る杭が打たれる文化だからこんなことはできない。」といったものだった。おもしろい。じぶんたちが持っているイメージとうらはらに、『日本は自己実現ができる、自由で寛容な国』という意識を持っているひとたちがいるのだ。
出る杭は打たれる。というのも使う場面によってその対象が変わるわけで、必ずしも、だから日本はいい、ということにはならないが、ハロウィーンの仮装に関してのみ言えば、やりたいけどふつうはできないことができる環境があるということについては言えるんだろう。
ただ、映像をみていて感じたのはやはり、鬱憤晴らしの気があること。
すこしうがった見方ではあるが、生来のぱーてぃーぴーぽーである人たち以外は、日々の自我を抑えたストレスからの解放を楽しんでいるように見えた。
ふだんから生き生きとしていたら、まあ必要はないだろうな。あくまでそう感じている。
しかし、だからと言ってあれほどおおくの人たちがすすんでやっていることを、バカらしい の一言で片付けることほど愚かなこともないわけである。
仮に、ここに参加しているひとはある程度鬱屈したものを抱えているとして、そうでない人たちはその必要がないのだとしたら、(迷惑を被ってない以上は、)これに対して文句を言うよりは、ふだんの生活で楽しんでいる分、一週間くらいは我慢しておもいきりやればいいとおもう。
実際に起きているこのような現象を、実態として認識して、企業が後押しし、行政はそれを規制するのではなく活かすような制度をつくるのがいい。
そうすれば、もしかしたらほんとうに世界の中でもユニークな祭りができるかもしれない。
もしそれすらも許せない、心の狭さであるなら、それは現状に不満があるに違いないのだから、仮装して騒いで、鬱憤をはらせばいい。
ヨーロッパでは荒れ狂うカーニバルの文化がここにはないし、ハロウィーンはコスプレでまちがおかしくなるのも悪くないかもしれない、とおもった。
まあ、お菓子をあげあうくらいでもまったく十分なんだけどね。笑
追記
きょう、Twitterで きのうのハロウィーンさわぎのあとのゴミがひどい 的な写真が流れてきました。
たしかにひどいことにはひどいけれども、ひとはもともと、出したゴミをきちんと処理できるにできていないので、恥もためらいも乗り越えて(捨てて) サルのようにさわぐことに決めたひとたちにそんなことを求めてもしょうがない。
というのと、海外でもニューイヤーやカーニバルの大々的なお祭りのあとのまちは、歩けないくらいにゴミが落ちているから、別にめずらしい景色ではない。し、それによって清掃員という職の需要が生まれているという事実もある。
ので、これについては、むしろこういうのをRetweetしてダメっしょみたいな態度が一番いただけないと感じた。
そりゃあよくはないんだから、大事なのはイイかワルイかの二元論ではなくてどうおもうのかどうすればいいのかのおはなしのはず。