『アフターダーク』
取りこぼしていたのか。
村上春樹の長編小説はすべて目を通したつもりだったがつもりで終わっていたらしい。
『アフターダーク』を読んだ。
村上春樹の小説の中身のバリエーションはそこそこ豊富であるものの
そこにある流れやメッセージは基本的に同一である。たぶん
だから自ずと、これらを読んで持つ感想は同じになる。
今回も、
たった1つのことを表すために費やされる言葉の量と方法に感銘を受け、
そこで表現された暗さに安心する。
「なあ、マリちゃんは輪廻みたいなものは信じてる?」
から始まり
「私はね、輪廻みたいなもんがあるはずやと思てるの。とゆうか、そういうもんがないとしたら、すごい恐い。無とゆうもんが、私には理解できないから。理解もできんし、想像もできん」
「無というのは絶対的に何もないということだから、とくに理解も想像もするひつようないんじゃないんでしょうか。」
「でもね、万が一やで、それが理解やら想像やらをしっかり要求する種類の無やったらどうするの?マリちゃんかて死んだことないやろ。そんなん実際に死んでみなわからへんことかもしれんで」
と続き、
「そういうことを考え始めるとね、じわじわ恐くなってくるねん」「考えてるだけで息が苦しくなって、身体がすくんでくる。それやったら輪廻を信じてた方がまだしも楽や。どんなひどいもんにこの次生まれ変わるとしても、少なくともその姿を具体的に想像することはできるやんか。たとえば馬になった自分とか、かたつむりになった自分とかね。この次はたぶんあかんとしても、そのまたネクストチャンスに賭けることができる。」
と終わる。
この先は「努力できる」ことがすごいというはなしになる。
また、
「それで思うんやけどね、人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙きれでしょ。火の方は『おお、これはカントや』とか『これは読売新聞の夕刊か』とか『ええおっぱいしとるな』とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙きれに過ぎへん。それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、全然役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」
といった会話もある。
これらはすべて、夜明け前の閑散とした古いラブホテルの従業員室で、
2人のその夜に出会った女によってなされる会話だ。
むかしから時折、『死ぬこと』を考える。
それを考えると決まって、胸が苦しくなって身悶えて、叫びたくなる。
きついなっておもってボーとしている時には必ず、
けっこう前の、その瞬間までは頭の片隅にもなかったような思い出が蘇る。
自分にもこんな経験があるわけだけど、
それがなに。だし、
ましてやそれをひとに伝える機会も、
どのように伝えるべきなのかも、
知らなかった。
そんな、奥底に眠る感情を、言葉と状況で適切に丁寧に表してくれるのが、本書だ。
この会話が物語の展開に直接的に関係してくるわけではない。
でも、この他にもある様々な適切かつ丁寧に表現されたひとの想いが
おれにとって、物語よりもさらに重要だ。