インコプフ

自己承認欲求と作文欲求の結晶

オトナの見方

こんなもんなのか...???

 

 

高校2年生のときに感じたこと。

 

大学1年生のときにも感じたし大学3年生のときにも感じた。

 

 

じぶんが中学生の頃は、高校2年生なんて背が高くてなんかいろいろ楽しみを知っていそうで包容力もありそうで。

そんなイメージだった。

 

高校2年生になったら、大学1年生は自由でなんでもできておもしろいひとばっかで

なんておもっていて

大学1年生のときの4年生の先輩は、なんか背高くて筋肉あって車あって一人暮らしで彼女いて運動できてお酒めっちゃ呑めておもしろくてしっかりしていて謎もあって。

 

でもどんなときにも自分がその年になるとどうしても

あれ..こんなものなのか...と感じる。

 

 

だからいまはもう、あんまりこんなものなのかとはおもわない。

こんなものだから。

 

 

 

 

なんどもこんなものなのかを経験してわかったことは

だれもかれもがこんなものであるということ。

人間、めったに進歩はしない。

すねているわけでも達観しているわけでもなく、現実として、進歩はない。

いやむしろ後退していると感じることすらある。

 

 

 

そして、人間と言った以上これはだいたいのひとに当てはまる。

 

つまりつまり、

みんながみんな、こんなものかと感じているはずで

それはみんながみんな、子どもの時から変わっていないということで

ということはみんながみんな、特別視して憧れるに値する存在ではない、ということだ。

 

 

おれはいま、キラキラしている社会人に憧れる必要もないし、

高校生は大学生に憧れるのは違うということ。

中身は大したことないんだから。

 

 

憧れや目標は、ときにプラスの力をくれるしときにはマイナスの力も与える。

 

 

 

じゃあ、なにがその幻想を創り出すのか。

それは「経験」の一言に尽きる。

ただただ経験があるかないか。それかもしくは「経験から学ぶ力」があるかないか。

それは人生経験はもちろん、「どういうオトナがどういう風に見えるか」という、過去の憧れの経験も含む。

憧れの連鎖なのだ。

 

 

 

だから、「オトナ」に対しては決して無条件の憧れの念を持つ必要はない。

誰でもそう。

もちろん、その個人に対する敬意は持つべきであるが、

その敬意は経験と学びに向かうべきでそういう態度は「コドモ」に対するそれと変わるべきではない。

 

 

特筆する経験や学びのない、ただ「年上」であるというだけで「オトナ」としてみられる同級生や自分を省みて、

ふとおもった。

 

 

自分はそんな大したことはないし、

きっと他の人もそんな大したことはない。