インコプフ

自己承認欲求と作文欲求の結晶

優しさという幻想

 

「優しさ」という曖昧模糊としたことば。

ふわふわとしていて何を指していているのかわからないもの代表。

 

これってもはや、存在しないに等しい概念ではないかとおもう。

 

じゃあ、普段くちにする「優しい」の正体は?

なんなんだろう。

 

 

 

例えば、アメリカでドアを開けて待っててくれる男性。優しい。

でもこれは単なる慣習。

「おもてなし」のときにも書いたけど、お互いの前提とする慣習が違うだけで、

それを好意的にみているだけのはなし。

 

例えば、いつも「だいじょうぶ?」と気遣ってくれる女性。優しい。

でもこれはその人にとっては挨拶かもしれない。

 

例えば、旅行のたびにお土産を買ってくれる友達。優しい。

でも自分もそうにしてほしいのかも。

 

例えば、道路側を歩いてくれるちょっと気になるあのひと。優しい。

でもあなたに好かれたいだけかも。

 

 

他にも「優しい」っておもうとき、「優しかった」てエピソードを聞くとき、

いろんなシチュエーションがあるとおもう。

 

 

 

 

でもたぶん、上に書いたように、それって受け手の解釈でしかない。

 

行為者のほうは、それが自分の「ふつう」だったり、もしくは「わざと」だったりするわけで。

 

 

つまり、行為者が「ふつう」のことをしただけで受け手が「優しい」と感じたら、

それは「優しさ」ではなくて「価値観(世界観)の相違」になる。

 

そして、行為者が「わざと」いいことをして受け手が「優しい」と感じたら、

それは「優しさ」ではなくて「打算」になる。

 

 

 

こう考えると「優しい行動」なんてものは存在しないわけで、

じゃあなんで受け手は「優しい」って受け取るのかというのは、

それは「相手が優しい」とおもいたいからなんじゃないかなとおもう。

 

だから「こんなひとだとおもわなかった」とかいうことが起こる。

 

そうじゃなくて、「優しいひと」なんていないし「優しさ」なんて存在しない。

「優しい」と受け取るのは自由だけれど「優しさ」を求めるのはちょっと違う。

 

そこにあるのは、自分と相手との価値観の違いかもしくはやましさ。

 

 

 

 

優しさの正体はそれらの引き起こす、勘違い。